正路 佐知子: テキスト from カタログ「想像しなおし」

映像はいくらでも嘘をつく。あるいは思いがけない真実を捉えてしまう。そのことに気づいたとき、わたしたちが見ているものの不確実性が、そしてわたしたち自身の認識や記憶の曖昧さが露わとなる。ビデオ作品から活動をスタートさせた川辺ナホの作品には、真実と嘘の境界さえ存在しないのではと思わせる態度が見え隠れする。

たとえば2004年のビデオ作品《Sugarhouse》で最初に現れるのは真っ白で何もないように見える画面だ。しかしそこに赤い水が降り注ぎ赤色が染み込んでいき、次第にそこにあるものの形が明らかになる。全貌が捉えられる頃、角砂糖で作られたその家は赤い水のなかに儚くも崩れ溶けていく。「見えないものを見えるようにすることは、一種の破壊行為でもあり、視線はその対象を変化させてしまう危険をはらんでいます。」と川辺は言う。視線に潜む暴力性が示されているが、そこで崩れたものが何であったか思い返したとき、本作が家制度への疑問も投げかけていることに気づかされることだろう。2007年のビデオ作品《Wash Your Blues》では水の中で常同行動(同じ動きを繰り返すという、自然界では見られない異常行動)をする動物園の白熊が4分間映し出される。アメリカの抗鬱薬プロザックの標語“Wash Your Blues Away”に倣い、絶え間なく上下運動する白熊の周囲は次第に水色から白色へと脱色されていく。その光景は白熊にとって懐かしい地の風景によく似ているともいえるだろう。動物園という生涯教育施設に潜む闇を指し示しながらも、白熊を人間に置き換えてみれば、ブルー(憂鬱)が消え失せたとき世界はどこか眩しく、しかし空虚で味気なく見えるのかもしれない。

川辺ナホのビデオ作品には観る者の視覚と記憶を撹乱する仕掛けがある。それは単に人を戸惑わせる罠などではなく、日常に潜むざわざわとした感覚を観る者に突きつけるために、それに気づかせるために必要なのだ。ビデオ作品からインスタレーションやオブジェへと展開した現在の活動においてもそのトリックが巧みに用いられる。たとえば2011年の資生堂ギャラリーで発表したインスタレーション《調和的だけど不公平#2》では、プロジェクターを用い、わたしたちの目を欺く仕掛けによって、見えているもの/見えていないものの間を往き来させた。そして映像機器や光源を用いない作品においてもそのスタンスは変わらない。2012年の《We are the Strangers!》では、カミュの『異邦人』(英語版)から切り取られたたくさんの一人称“I”が糸で繋がれた。元の文脈から切り離され浮遊するたくさんの「わたし」。そのほとんどが『異邦人』の主人公ムルソーであるはずなのに、その時々で違う様相を見せる社会との関係の中で提示される「わたし」と「わたしたち」について思い巡らせることになる。

本展において、福岡市美術館のコンクリート打ちっぱなしの倉庫に展示された《眼鏡店》は、川辺が2011年から取り組んでいる球体のインスタレーションの発展形である。色とりどりの小さな球が吊るされ、2つのライトに照らされている。雲のようにも見え、原子構造や宇宙の天体、あるいは人間そのもののありようを暗示しているとさえ思わせるこのインスタレーションでは、一方向から光が差し向けられたときのみ球の影が壁に文字の形になって現れる。「DIE NEIGE DES MENSCHEN(人間の残滓)」、ヴァルター・ベンヤミンの短文集『一方通行路』に収録された文章の一節「まなざしは人間の残滓である。」から取られた言葉だ。それはわたしたちが本作を見る経験そのものを示すようであり、文字と認識できる影をつい追ってしまうニュートラルではあり得ない人間のまなざしをシニカルに捉えているともいえる。文字というものを知る者はたとえその言語を知らなくとも、点の連なりを文字として認識してしまう。文字と文字でないものの境は何かという問題が浮上する。目には見えないのに人が勝手に存在させてきたこの「境界」「線」。唯一のビデオ作品《ピレネーの振り子》は、ベンヤミンが晩年国境を越えることを目指して登ったピレネー山脈のスペインとフランスの国境付近にカメラを設置して撮られた。線はどこにも見えず風景も何ら変わらないのに、その線は人間の行く手を阻み、人生を一変させることもある。木炭を砕いた粉を用いてレースカーテンの柄を象った《水平線は傾かない》と《花と境界》も境界線のあり方と捉え方を問うものだ。

最後に、《削除》はさまざまな本のページを切り取り、文字と図像部分を錫のテープによって蓋をした作品である。時代に逆行するかのように情報が隠匿される危険性を帯びた昨今の状況を受けて、あるはずの文字が見えなくなるとはどういうことかという素朴な疑問を出発点に、文字を封印した薄い紙は重量と禍々しさを増して提示される。強い照明を受けて金属が光る。わたしたちが見ている/見えていないものは何か、お前は何者か、と問いかける。