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Aufenthaltswahrscheinlichkeiten

Aufenthaltswahrscheinlichkeiten 確率的滞在

2019
21 x 15 cm, 96 ページ
言語: 独、日

発行人: 川辺 ナホ

テキスト: Julia Dautel, Enzio Wetzel, Ursula Panhans-Bühler, 川辺 ナホ


参加アーティスト: Nir N. Alon, Kyung-hwa Choi Ahoi, Sho Hasegawa, Hannimari Jokinen, Naho Kawabe, Linda McCue, Mitko Mitkov, Miwa Ogasawara, Joe Sam-Essandoh, Shan Fan, Youssef Tabti, Hua Tang, Nikos Valsamakis

デザイン: 尾中 俊介 (Calamari Inc.)
写真: 山中 慎太郎 (Qsyum!)

ご注文: Sautter + Lackmann (ハンブルク)
Waitingroom (東京)
Calo (大阪)

Observer Effect オブサーバー・エフェクト

Observer Effect オブサーバー・エフェクト

2013, Revolver Publishing
19 x 12 cm, 145 ページ
言語: 独、英、日

発行人: 川辺 ナホ
テキスト: Klaus Plöger, Belinda Grace Gardner, Waltraud Brodersen, Ludwig Seyfarth
岡部あおみによるインタヴュー
デザイン: 溝端 貢

ご注文: Revolver Publishing (ベルリン)
Sautter + Lackmann (ハンブルク)
Waitingroom (東京)

ISBN 978-3-95763-079-7
ISBN 978-3-86895-297-1 (old ISBN)

In Other Words/言い換えると

Konya 2025, 福岡 (JP)

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Photo: Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

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Photo: Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

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Photo: Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

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Photo: Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

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Photo: Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

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Photo: Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

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「In Other Words/言い換えると」展によせて
正路 佐知子

1969年7月20日、月面に無事着陸できたアポロ11号には当時最先端のコンピュータが搭載されていた。当時としては巨大なプログラムやデータをいかに小さな空間に納めるかという課題にこたえるべく採用されたのが、導線とコアと呼ばれるリングを用いるコアロープメモリである。一針一針、導線を縫い付けることでプログラムデータを間違いなく記録させることをも可能にしたこのコアロープメモリは、縫製の技術に長けていた女性工員たちの手によって作られていた。そしてこのコンピュータのプログラミングをおこなったのは、マーガレット・ハミルトンという若い科学者だった。彼女は「ロープマザー」とも呼ばれた。

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1972年に発射されたアポロ17号を最後に、人類は月に足を踏み入れていない。しかし月面には宇宙飛行士が持ち込んだモノが今も放置されたままだ。そしてそこにはNASAが持ち込んだのではなく「密輸」されたとされているモノもある。1.3センチ×1.9センチのセラミック製の基盤に6人の美術家(アンディ・ウォーホル、クレス・オルデンバーグ、デイヴィッド・ノヴロス、フォレスト・マイヤーズ、ロバート・ラウシェンバーグ、ジョン・チェンバレン)のドローイングが刻まれた「月の博物館(Moon Museum)」(1962年)である。月に現代美術作品を持って行きたいと考えたマイヤーズが当時第一線にいた美術家たちに声をかけ実現したこの極小の「作品」は、まさに網の目をかいくぐり着陸モジュールの脚に取りつけられ、月面に残されていると作家自身によって表明された。胸踊る話だが真偽は不明、現時点では誰も確かめることはできない。

すべて新作で構成される本展覧会の会場でわたしたちを迎える大型インスタレーションに目を向けよう。地球から月までの距離の3億分の1の長さのロープが、空間を切り取るように張られ、面を形作っている。ロープからだらりと垂れ下がった複数の黒いオブジェは「月の博物館」のドローイングの形をもとに、川辺が毛糸で手編みしたものだ。制作過程で身体が機械化するような感覚にとらわれたというこの手作業は、コアロープメモリを編み込む女性工員の行為を反復するものともいえる。
川辺ナホは日本とドイツを行き来しながら活動を続けてきた。「境界」と「移動」は、彼女の生活とも表現とも不可分なものである。今から50年近く前の、月面着陸という人類史上に残る出来事も、地球から月への大きな移動ともいえるし、女性の労働をめぐる問題は現代社会にも通じている。複数の史実・物語が作品に織り込まれ、確固とした形を有し、あるいは変形し崩れ、新たな形を描いてゆく。本展のタイトルは川辺がつけたものでそこには理由があるのだけれど、この言葉を彼女の作品に対峙する際のヒントとも捉えることがができそうだ。言い換えると…

Photo: Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

キュレーション: 正路 佐知子(福岡市美術館)

真の女性は全ての結び目を解く

シングルチャンネルビデオ、49分15秒
カメラ: Saskia Bannasch、Naho Kawabe

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3Kgの炭の破片を二つの手が一本の木のような形に紐で纏めてゆく。手の動きは迷いなく滑らかで、所作の合間に手の持ち主である女性は小包の梱包に関する個人的な話、自身の母親との関係、冷戦時代のベルリンの政治的状況やその日常を語ってゆく。彼女は1956年に東ドイツから西ドイツへと亡命してきたのだ。様々な大きさの異なった形のものを紐で一つにまとめ上げるその手法は、母親から学んだ。50ー60年代に、多くの物資が個人的に西から東へ送られた。当時はビニールテープはまだ発明されていなかった。このテクニックとそれに伴う手の所作はもうすぐこの世界から失われるだろう。
タイトルの「真の女性は全ての結び目を解く/Eine echte Frau löst jeden Knoten」とは、彼女が十代だった頃、西ドイツの高校教師から聞いた格言だ。「女性」になるにはなんとも高いハードルがあることかと驚いた。当時のその感想を今でも思い出すという。

Exhibitions: Waitingroom 東京 (JP) / Boxes Museum 広州 (CN)

Solaris

紐、製本のり、小説「ソラリス」(Stanislaw Lem, 1961)の中の全ての「I」
60 x 50 cm

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Photo: Kenichiro Amano

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Photo: Kenichiro Amano

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Photo: Fabian Hammerl

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Photo: Kenichiro Amano

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展示: waitingroom 東京 (JP)

Transitorisch

TRANSITORISCH: STRATEGIEN GEGEN DIE VERGÄNGLICHKEIT

2016, transcript
22,5 x 15 cm, 312 ページ
言語: 独

発行人: Belinda Grace Gardner
テキスト: Belinda Grace Gardner

ご注文: transcript Verlag (ビーレフェルド)

ISBN 978-3-8376-3767-0

Claus Mewes: オープニングスピーチ Delikatelinien ボン

川辺ナホは1976年、日本の南西部にある港湾都市福岡で生まれ育った。人口150万人を有するその都市は、日本の南島九州に位置し、隣国の韓国とは直接に海路で繋がっている。国境海域で起こったいくつかの歴史的な海軍の戦いがよく知られているが、その中でも特に1905年に対馬海峡/朝鮮海峡で、圧倒的多数のロシア海軍に対峙した小さな日本艦隊の勝利が有名だ。この出来事は、西側諸国の植民地であったアジアやアフリカの国々がその足枷から解放された20世紀において、非西洋世界にとって新たな自信の原動力と見なされた(Pankaj Mishra、帝国の遺跡、2013)。福岡は第二次世界大戦中の1945年にアメリカの標的として再び歴史的脚光を浴びた。その計画とは、同年の8月に(広島に次いで)2番目の原子爆弾を福岡に投下するというものだったのだが、悪天候により阻まれた。今日、福岡はフェリーや飛行機で韓国や中国から海を渡って来る観光客たちに大人気のショッピングスポットとなっている。川辺は1996年から1999年まで東京の武蔵野美術大学でメディアアートを学び、2001年にDAAD奨学金を受けドイツに渡った。最初にブレーメン、その後にハンブルクへと移った川辺は、ハンブルク美術大学でフルクサスの芸術家Claus Böhmlerに師事し、2006年に同大学を卒業して以来、ハンブルクでアーティストとして活動ており、ドイツや日本での展示のを機会を増やしている。

アジアとヨーロッパの文化間を往復する経験は、川辺ナホの芸術作品に見られる顕著な側面だ。ここで7つのスペースに展示されている作品は、片やモノクロームという日本の抽象的美学、片やナラティブという西洋美術の伝統を、インスタレーション、写真、ビデオというメディアの中で新しい形で表現する美学的な目論みである。こうした領域において、作家は例えば炭とそれに相反する物質である「光」という特定のマテリアルを自ら選び、その特性を用いているのだ。

木炭を象徴的な形で用いることで、物質的としての炭はミニマルな厳格さと造形を備え、長年にわたって川辺のインスタレーションのトレードマークになっている。炭はそれ自体が、すでに特別な美的特徴と社会的な意味を備えている。炭は、芸術制作における素描の伝統的道具としての利用から、Jannis Kounellis (Monika Wagner: Das Material der Kunst、2001年、p.244)といったアルテ・ポーヴェラの芸術家によるオブジェへの転用に至るまで、長い素材としての歴史を持つ。石炭は、歴史上ブルジョア層の富の礎となった重要なエネルギーであると同時に、社会的および生態的な悲劇も引き起こしている。その分野では、1913/17年のUpton Sinclairによる小説「石炭王」で描かれた、化石原料の非人道的な採掘が搾取と人種差別の象徴となったコロラド鉱山地域での出来事から、私たちの時代における石炭採掘という植民地主義、または様々な気候会議でのCO2排出量をめぐる現在の議論までに及ぶ。川辺ナホが福岡に生まれ学校に通っていた70年代の終わり頃、日本やヨーロッパの石炭産業は危機に瀕していた。日本政府はそれ以降、2011年川辺自身も東京で体験した福島原発事故の発生に至るまで、原子力エネルギーだけに頼ってきた。彼女は震災後、被災地を2回訪れ、ビデオと写真を撮影を行なっている。

炭の使用ということも含めて、エネルギーというテーマは川辺の芸術作品の中心となった。炭のインスタレーションは、展示期間の終わりに黒い粉末で作られた床の作品は掃き消され、写真の記録にのみ残されるので、その場限りのものだ。コーヒーミルを使い苦労して作り出される炭粉は、レースのカーテンの網目を通して撒かれ、固定されてない。床に形作られる図、模様、印、線は、ステンシルのように使用されたカーテンのネガ部分である。石炭は何千年もの間、地下に横たわり、陽の光をその生命の源とした樹木や植物が圧縮されることにより作り出される「原」素材だ。石炭は暗く、鈍く、生命は失われているが、以前は緑豊かな植生であった証でもある。川辺によって床に散りばめられる形は、まるで炭が元来の姿を一瞬取り戻したかのように、植物を描いていることが多く、そのインスタレーションは、展示スペースの建築や照明と呼応するサイトスペシフィックなものだ。また、炭というマテリアルの選択の一因が、川辺の祖父が鉱山エンジニアであったことも言及されるべきである。

黒い粉末がガラスに固定され、斜めに掛けられた個々のフレームの中で連続した水平線が形成される作品では、文化間を行き来するという作家自身の経験をもとに、水平線を境界とその越境の比喩、制限と可能性のインターフェースとして焦点を合わせている。水平線はその後ろにも続いてゆき – その背後には脅威が潜んでいるのだ。地面や海面と空の間にある線は、それが憧れを呼び起こすと同時に危険を象徴している(Waltraud Brodersen: Observer Effect 、ベルリン2013)。これは、展覧会のタイトル「delikatelinie ーーデリケートライン」への最初の造形的なつながりといえる。というのも、デリケートとは、”繊細な”とか”細かい”というだけでなく、壊れやすく過敏で、損なう可能性という意味も持つからだ。外交用語に「デリケートなミッション」という表現もあるくらいである。

異なる文化での経験により、川辺の国境の制限やそれを克服しようとする動きへの関心は鋭くなっていったーーそれはいくつかの階層にわたっており、例えば「貧しいマテリアル」ともいえるカラフルなボール紙から、作家は様々な種類の渡り鳥の飛行ルートを切り抜く。その異なる輪郭を針で留めることによって、方向や優先順位といったものを排除したカラフルで形の異なるラインは、複雑な網状の構造を浮かび上がらせている。また別の作品は、アフリカ大陸のすべての国境の輪郭をたどっているカラフルなカットアウトだ。戯れに円を描いたかのような鳥の飛行ルートは、その制限のなさや気ままな定住性ゆえにユートピアを連想させる一方で、アフリカ諸国のシルエットは――歴史的に専断的に引かれた国境の勾配に従って――多くが鋭利に切り取られている。軽く壁に刺された針にひっかけるという、意図して無造作に展示することにより、ボール紙の飛行ルートおよび境界線はそれぞれが交換可能な様であり、非常に壊れやすく見える。

すでに2011年には、アフリカは川辺にとって美術的、哲学的に表現の対象となっていた。おそらく作家の分身としても理解されるだろうガボンのムベテ族の呪術人形について、インタビューでこの世界に有る定義を探していると答えている。「インスタレーション『Why am I here?』のために人形を探していました。(‥‥)そして『Harry’s Hafenbayar』でこの人形を見つけたのです。そこは非常に奇妙な場所でした。それぞれ別のミクロコスモス的な文化圏からやってきて、それぞれの場所では特定な役割を担っていたはずの呪術人形たちは、そこではそんなことはお構いなしに一緒に展示されていました。(‥‥)都市もバザールも彼らの元来の目的地ではありません。彼らはここで何をしているのでしょう?どこから来て、どこへ行くのでしょう?(‥‥)人形はいつの頃かアフリカで生まれ、船でハンブルクに向かい、今ではレーパーバーンで目的失って佇んでいました。(‥‥)今では、全く別の文化圏の中で説明できないかたちで佇み、未分類のものになっているのです。境界への旅とその越境は、最初のレベルの議論です。(‥‥)私たちは空間と時間のどのあたりにいるのでしょう、依るべき場所の有無というのは、すべてに関わる存在の問題に行き着きはしないでしょうか?(Elena Winkelと川辺ナホのインタビューより、カタログ INDEX 11、ハンブルク2011、p. 48f.)

水平線と国境というテーマの組み合わせは、プレス機から出てきたばかりのシルクスクリーンの作品にも表れている。ここでもまた、アフリカ諸国の国境線を象ったカラフルな雲が、川辺によってヨーロッパ最西端で撮影された写真の上に浮かんでいる。リスボンの近くに位置するロカ岬から、今日でも太平洋からアメリカやアフリカ――つまりかつて世界的権力をふるっていたポルトガルが富を吸い上げた地――まで景色は無限に広がっている。一見朗らかな気持ちを起こさせるシルクスクリーンの雲の色は、しかしながら不吉な前兆のように水平線上に浮かび上がる。聖書によると、バビロニア王ベルシャザールが盛大な宴を開いていた最中、謎に満ちた言葉が壁に映し出されたのだが、これは彼の人生の終焉と王国の崩壊を告げるものだった。レンブラントは、1635年にこの物語から有名な絵画を作成した。「ベルシャザールの酒宴」(ロンドン・ナショナルギャラリー)と題されたこの作品では、光り輝く邪悪なメッセージが、驚く支配者の前に現れている。川辺はこうした不吉の予兆の絵を取り上げ、インスタレーションに応用している。Ermekeilkaserne (1948年以降に連邦共和党国防省の最初の場所となった)の、かつて機密が保持、隠匿された「暗号室」に展示された光のインスタレーションでは、糸にぶら下がり照らされる球体が「einer muss wach sein 誰かは目覚めていなくてはならない」というフランツ・カフカの寓話からの一節を、影によって壁に書く。このユダヤ人作家は、第一次世界大戦開始から10年後の1924年、わずか8文という究極に簡潔な『Nachts 夜に』という作中で、ワイマール共和国の社会状況を端的に描写した。人々が夕方にアパートや屋外で休息をとり、安全だと思っているとき、その平和を守るために誰か一人は見張っていなくてはならない。カフカのテキストの最後の5つの文は次のとおりである。「そして、君は目覚めている。君は見張り番の一人で、隣にある柴の山から燃える木を振ることで次の番を見つける。なぜ見張るのか?誰かが見張らねばならないのだ。誰かががそこにいなくては。(Kafka, Das Werk, Romane und Erzählungen, Frankfurt a.M. 2004, p. 906)

近年、アーレンスブルクのMarstallで展示されたた別の作品「Wandermüde」で、川辺は、ローマからコルフ、ハンブルク、マルセイユ、そして最後にトゥーロンへ、主に船で運ばれたユダヤ系ドイツ人作家ハインリッヒ・ハイネの記念碑の放浪を扱った。川辺ナホがドイツ文学作品とその著者の運命に取り掛かった出発点は、日本の大学での授業やヴァルター・ベンヤミンと彼の失われた黒い鞄についての話からだった。

ここでの上映されている2008年の「Der Weg I」というビデオは、「Chemin Benjamin」(cf. Waltraud Brodersen、カタログ Observer Effect より)を主題としている。メディア理論家でもあったこの哲学者は、1940年、BanyulsからPort Bouへとナチスから逃れるために現在もフランスとスペインの国境線を結ぶピレネー山脈を横断する「密航者たちの道」を辿った。ベンヤミンや他の多くの亡命者らは、フランコが制するスペインを横切ってリスボンへ到達すべく、HansとLisa Fittkoの助けを借り、地中海沿岸東のピレネー山脈の葡萄畑を通るという古いルートに沿って越境した。亡命者はその後、リスボンから船に乗り、カサブランカ、上海、ハバナ、ニューヨークへと脱出していった。しかし、Port Bouに着いたヴァルター・ベンヤミンは、自らのトランジットビザが有効でないことがわかり、自殺してしまう。この30分ほどの映像は、石という障害物を常に見下ろしながら歩く男の視点から、または、彼が携えていた、おそらく最後の長篇原稿が収められた黒い鞄の高さから、山の険しい上り坂を映し出している。川辺は、ベンヤミンが重い鞄を持ったようにバランスをとりながら、カメラを手に持って撮影した。そして、その落ち着きのない動画の上に、道や散歩に関するベンヤミンとLisa Fittkoのテキストが表示されている。

最後にまとめとして、60歳でヴァルター・ベンヤミンと同様にピレネー山脈を横断しなければならなかったハインリッヒ・マンの自伝「一時代を検閲する」を引用しよう。20世紀初頭のマンの「記憶」は、川辺による渡り鳥の飛行ルートやヨーロッパに生息する鳥の個体数の国境無き分布、地平線の比喩を、絵画的かつ、しばしばユーモアと皮肉な距離を掲げる人々の共生のビジョンとして出現させているのだが、今日の我々はそのビジョンから遠く離れている。この作家の1944年に記した諫言は、現状からかけ離れたものである。「犯罪的な時代は長い間、それ自体を予想することができなかった。それは礼儀正しく、個々人の保護というものを、過剰で危険であるというよりは、正しいことだと考える時代だった。通常時には、それは疑わしきものではなく、人類への信頼とみなされる。奇妙で不可解に聞こえるが、人々はパスポートなしでヨーロッパを旅していたのだ。集金のために身分証も必要なかった。いくつかの国を住まいとし、決まった住所を持っていない人は、どこかの役所から税金を徴収されることもなかったのだ」(ハインリッヒ・マン「一時代を検閲する」)。

言うまでもなく、“moving location”のアイデア、この時期にシリア、イラク、アフリカからの難民受け入れセンターに改装されたボンの兵舎で、川辺ナホの展覧会を開催することは、人々の共感を呼ぶものであろう。多くの来館者があることを願います。

Die Vogelwelt Europas und ihre Verbreitung

Cプリント、10組、各40 x 50 cm

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1962年に刊行されたアトラス「Die Vogelwelt」には、420種のヨーロッパの鳥類の世界分布が図解されている。その国境を超えて飛び交う鳥の分布図が42種ずつ、1枚のグラフィックに重ね合わせられている。

展覧会: Ermekeilkaserne, Bonn (DE) / Take Maracke & Partner, Kiel (DE)
図録: カタログ “DELIKATELINIEN”