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そして、最近の日本で起きた自然災害は周知のように、原子力発電所さえ持ちこたえることのできなかった津波である。2012年3月に川辺ナホは甚大な津波被害を受けた宮城県の著しく破損した、または崩壊した家を数多く写真に収めた。写真の建物がどのようにしてこの状態になってしまったのか分からない、しかし古典的な廃墟研究者とは違って、我々はすぐにそのことに疑問を持つだろう。そして、建物の未来についても同様に疑問を持つ。これらの家は修復されるのか、それとも取り壊されて新しいものに取り替えられるのか、と。
一連の写真はビデオ撮影の準備として撮影された。ビデオでは、車に搭載されたカメラがゆっくりと均一的にほぼ完全に破壊された宮城県の小さな港町の名残を捉える。残っている家はわずかで、それ以外はすでに片付けられてしまっている。写真では、塵と砂と瓦礫が家々の間に横たわる空き地に 散らばっていたのに 、数ヶ月の後にはもうそこに植物が芽吹き、空き地を覆ってしまった。水は下から大地へ染みでてきている。自然は空いた領域に戻って来た。
川辺ナホの興味の対象は、荒々しい災害のエネルギーとは物質的にも時間的にも対照的に、そのあまり目立たないプロセス、ゆっくりとした変化である。そしておそらく数年も経たないうちに完全に消失してしまうであろうものを捉える。代表的で記念碑的な建造物だけに視線を投げかけるのではなく、普通の住居や集合住宅に目を向ける。全てを新しく建築することができる完璧な空白は、多くの建築家にとって常に魅力的である。(…)
しかし、都市の再建築は、過ぎ去った過去を跡形もないように見せかけることもできる。2008年、第2次世界大戦で甚大な被害を受けてから再建50周年を迎えたフランスの避暑地ロヨンを川辺ナホは訪れた。ロヨンのディズニーランド的に作用する街の背景にジャック・タチは、建築的なモダニズムと過度にハイテク化された日常の荒唐無稽さの風刺する「ぼくの伯父さん」(1958)の構想を得た。
川辺の写真シリーズ「The Palms of Royan」に映っている住居、邸宅やホテルは、まるで巨大な映画のセットの一部分のような憶測を呼び、それに加えて人々の不在が、建築物が現実の大きさではなく縮小された建築モデルであるかのような印象を与える。同じように撮影された宮城の住居に関しても、それらが現実の破壊を映し出しているのか、それとも津波被害のシュミュレーションの建築モデルなのか、 そのイメージをひとりでどれだけ見つけても、我々がそれを読み取ることはほぼ不可能である。
川辺ナホは世界をあたかも集合体のように現す。世界はその物質的な強固さとしてではなく、例えば彼女が好んで使う炭の粉といったマテリアルで表現されるような、通過的で 儚ないものとして示される。廃墟は単に過ぎ去った過去や無情さへの思惟を促すものだけではなく、ひとつの状態から違う状態ヘと移行する通過の表現なのである。廃墟は消滅を繰り返す永遠の循環の中でたたずんでいるのではなく、それ自体が移ろいゆき、消滅するものなのだ。川辺ナホは2006年に発表したパノラマ的な炭のインスタレーションや2004年の短いビデオ作品「Sugarhouse」に見られる陽炎のようなマテリアルを使って、何度も住宅や廃墟と言ったモティーフを表現してきた。「Sugarhouse」では4分間の間に家は溶解してゆく。
古典的な西洋の廃墟が記念碑のように空にそびえ立つシルエットであるなら、川辺ナホの作品に出現するそれは、短い間に現れては消えるはかない痕、カリグラフィのような象徴、風に運び去られる木の葉のようだ。
Naho Kawabe. Observer Effect, Berlin 2013 より