All posts by kryptothek

Continent of Africa / Routes of Migratory

紙、針

Routes-of-migratory
Afrika_Kenichiro-Amano6
Afrika_Kenichiro-Amano5
Afrika_Kenichiro-Amano4
Afrika_Kenichiro-Amano3
Afrika_Kenichiro-Amano2
Afrika_Kenichiro-Amano1
previous arrow
next arrow
Routes-of-migratory
Afrika_Kenichiro-Amano6
Afrika_Kenichiro-Amano5
Afrika_Kenichiro-Amano4
Afrika_Kenichiro-Amano3
Afrika_Kenichiro-Amano2
Afrika_Kenichiro-Amano1
previous arrow
next arrow

Photo: Kenichi Amano

領地、地理、生物学、社会、経済、道徳、美学には境界線や限界や礼儀がある。「Routs of Migratory」(2015年)では、渡り鳥の飛行ルートのシルエットを、「Continent of Africa」(2015年)は、アフリカ大陸に引かれた全ての国境線をカラフルなボール紙から切り取っている。色とりどりのカットアウトは小さな針にひっかけて展示されることで、それらは取り替えたり、取り外したりすることができるかのようで、儚くて暫定的で消失さえしそうなほど、その変化の容易である。
アフリカからヨーロッパへと毎年移動する鳥たちの飛行経路は、戯れに描かれた円のようでだ。その制限のなさや気ままな定住性はユートピアを連想させる。その調和のとれたフォルムと対照的なのは、アフリカ大陸に引かれたギザギザした鋭利な国境線だ。その恣意的な線は、アフリカの政治的ドラマの記録である。

Photo: Kenichiro Amano

展覧会: Ermkeilkaserne, Bonn (DE) / Frappant, Hamburg (DE) / Waitingroom 東京 (JP) / VOLTA 14, Basel (CH)
図録: カタログ “DELIKATELINIEN”

Der Weg II

Cプリント、アクリルラッカー、炭、ガラス、4枚組、各 30 x 40 cm

7DD_7598

Photo: Kenichi Amano

7DD_7593

Photo: Kenichi Amano

7DD_7589

Photo: Kenichi Amano

7DD_7587

Photo: Kenichi Amano

previous arrow
next arrow
7DD_7598
7DD_7593
7DD_7589
7DD_7587
previous arrow
next arrow

展覧会: Waitingroom 東京 (JP)

正路 佐知子: テキスト from カタログ「想像しなおし」

映像はいくらでも嘘をつく。あるいは思いがけない真実を捉えてしまう。そのことに気づいたとき、わたしたちが見ているものの不確実性が、そしてわたしたち自身の認識や記憶の曖昧さが露わとなる。ビデオ作品から活動をスタートさせた川辺ナホの作品には、真実と嘘の境界さえ存在しないのではと思わせる態度が見え隠れする。

たとえば2004年のビデオ作品《Sugarhouse》で最初に現れるのは真っ白で何もないように見える画面だ。しかしそこに赤い水が降り注ぎ赤色が染み込んでいき、次第にそこにあるものの形が明らかになる。全貌が捉えられる頃、角砂糖で作られたその家は赤い水のなかに儚くも崩れ溶けていく。「見えないものを見えるようにすることは、一種の破壊行為でもあり、視線はその対象を変化させてしまう危険をはらんでいます。」と川辺は言う。視線に潜む暴力性が示されているが、そこで崩れたものが何であったか思い返したとき、本作が家制度への疑問も投げかけていることに気づかされることだろう。2007年のビデオ作品《Wash Your Blues》では水の中で常同行動(同じ動きを繰り返すという、自然界では見られない異常行動)をする動物園の白熊が4分間映し出される。アメリカの抗鬱薬プロザックの標語“Wash Your Blues Away”に倣い、絶え間なく上下運動する白熊の周囲は次第に水色から白色へと脱色されていく。その光景は白熊にとって懐かしい地の風景によく似ているともいえるだろう。動物園という生涯教育施設に潜む闇を指し示しながらも、白熊を人間に置き換えてみれば、ブルー(憂鬱)が消え失せたとき世界はどこか眩しく、しかし空虚で味気なく見えるのかもしれない。

川辺ナホのビデオ作品には観る者の視覚と記憶を撹乱する仕掛けがある。それは単に人を戸惑わせる罠などではなく、日常に潜むざわざわとした感覚を観る者に突きつけるために、それに気づかせるために必要なのだ。ビデオ作品からインスタレーションやオブジェへと展開した現在の活動においてもそのトリックが巧みに用いられる。たとえば2011年の資生堂ギャラリーで発表したインスタレーション《調和的だけど不公平#2》では、プロジェクターを用い、わたしたちの目を欺く仕掛けによって、見えているもの/見えていないものの間を往き来させた。そして映像機器や光源を用いない作品においてもそのスタンスは変わらない。2012年の《We are the Strangers!》では、カミュの『異邦人』(英語版)から切り取られたたくさんの一人称“I”が糸で繋がれた。元の文脈から切り離され浮遊するたくさんの「わたし」。そのほとんどが『異邦人』の主人公ムルソーであるはずなのに、その時々で違う様相を見せる社会との関係の中で提示される「わたし」と「わたしたち」について思い巡らせることになる。

本展において、福岡市美術館のコンクリート打ちっぱなしの倉庫に展示された《眼鏡店》は、川辺が2011年から取り組んでいる球体のインスタレーションの発展形である。色とりどりの小さな球が吊るされ、2つのライトに照らされている。雲のようにも見え、原子構造や宇宙の天体、あるいは人間そのもののありようを暗示しているとさえ思わせるこのインスタレーションでは、一方向から光が差し向けられたときのみ球の影が壁に文字の形になって現れる。「DIE NEIGE DES MENSCHEN(人間の残滓)」、ヴァルター・ベンヤミンの短文集『一方通行路』に収録された文章の一節「まなざしは人間の残滓である。」から取られた言葉だ。それはわたしたちが本作を見る経験そのものを示すようであり、文字と認識できる影をつい追ってしまうニュートラルではあり得ない人間のまなざしをシニカルに捉えているともいえる。文字というものを知る者はたとえその言語を知らなくとも、点の連なりを文字として認識してしまう。文字と文字でないものの境は何かという問題が浮上する。目には見えないのに人が勝手に存在させてきたこの「境界」「線」。唯一のビデオ作品《ピレネーの振り子》は、ベンヤミンが晩年国境を越えることを目指して登ったピレネー山脈のスペインとフランスの国境付近にカメラを設置して撮られた。線はどこにも見えず風景も何ら変わらないのに、その線は人間の行く手を阻み、人生を一変させることもある。木炭を砕いた粉を用いてレースカーテンの柄を象った《水平線は傾かない》と《花と境界》も境界線のあり方と捉え方を問うものだ。

最後に、《削除》はさまざまな本のページを切り取り、文字と図像部分を錫のテープによって蓋をした作品である。時代に逆行するかのように情報が隠匿される危険性を帯びた昨今の状況を受けて、あるはずの文字が見えなくなるとはどういうことかという素朴な疑問を出発点に、文字を封印した薄い紙は重量と禍々しさを増して提示される。強い照明を受けて金属が光る。わたしたちが見ている/見えていないものは何か、お前は何者か、と問いかける。

Expurgation

本のページ、錫

Weight-of-Secret_Kenichi-Amano

Photo: Kenichiro Amano

Expurgation_Keiichi-Amano

Photo: Kenichiro Amano

Expurgation_Kenich Amano

Photo: Kenichiro Amano

Expurgation_Stefan Canham1

Photo: Stefan Canham

Expurgation_Stefan Canham2

Photo: Stefan Canham

wise-mans-stone
previous arrow
next arrow
Weight-of-Secret_Kenichi-Amano
Expurgation_Keiichi-Amano
Expurgation_Kenich Amano
Expurgation_Stefan Canham1
Expurgation_Stefan Canham2
wise-mans-stone
previous arrow
next arrow

展覧会: 福岡市美術館 (JP) / Frappant, Hamburg (DE) / Port Gallery T 大阪 (JP) / VOLTA 14, Basel (CH) / Waitingroom 東京 (JP)
図録: カタログ “想像しなおし”

Optiker

金属、プラスティック、鏡、紙、ガラス、木、モーター、LEDライト、サイズ可変

展示空間の中央付近には、様々な大きさ、素材、色の球体でできた雲が浮かんでいる。天井から見えない糸で吊るされている鉛、ガラス、プラスティック、紙などの200個余の球体には、サーチライトのように左右に動くスポットライトから光が当てられる。そよ風で揺れる球体の一群は、ランダムに浮かんでいるように見えるが、ライトに照らされると、その影は「Die Neige des Menschen(人間の残滓)」という一文を壁に映し出す。(引用元: 眼鏡店、一方通行路、ヴァルター・ベンヤミン)

ドキュメント “Optiker” 2014、福岡市美術館、1′ 09

展覧会: 福岡市美術館 (JP)
図録: カタログ “IN SEARCH OF CRITICAL IMAGINATION”

ルードヴィヒ・ザイファート風に舞う木の葉 川辺ナホが表現する廃墟について

(…)

そして、最近の日本で起きた自然災害は周知のように、原子力発電所さえ持ちこたえることのできなかった津波である。2012年3月に川辺ナホは甚大な津波被害を受けた宮城県の著しく破損した、または崩壊した家を数多く写真に収めた。写真の建物がどのようにしてこの状態になってしまったのか分からない、しかし古典的な廃墟研究者とは違って、我々はすぐにそのことに疑問を持つだろう。そして、建物の未来についても同様に疑問を持つ。これらの家は修復されるのか、それとも取り壊されて新しいものに取り替えられるのか、と。

一連の写真はビデオ撮影の準備として撮影された。ビデオでは、車に搭載されたカメラがゆっくりと均一的にほぼ完全に破壊された宮城県の小さな港町の名残を捉える。残っている家はわずかで、それ以外はすでに片付けられてしまっている。写真では、塵と砂と瓦礫が家々の間に横たわる空き地に 散らばっていたのに 、数ヶ月の後にはもうそこに植物が芽吹き、空き地を覆ってしまった。水は下から大地へ染みでてきている。自然は空いた領域に戻って来た。

川辺ナホの興味の対象は、荒々しい災害のエネルギーとは物質的にも時間的にも対照的に、そのあまり目立たないプロセス、ゆっくりとした変化である。そしておそらく数年も経たないうちに完全に消失してしまうであろうものを捉える。代表的で記念碑的な建造物だけに視線を投げかけるのではなく、普通の住居や集合住宅に目を向ける。全てを新しく建築することができる完璧な空白は、多くの建築家にとって常に魅力的である。(…)

しかし、都市の再建築は、過ぎ去った過去を跡形もないように見せかけることもできる。2008年、第2次世界大戦で甚大な被害を受けてから再建50周年を迎えたフランスの避暑地ロヨンを川辺ナホは訪れた。ロヨンのディズニーランド的に作用する街の背景にジャック・タチは、建築的なモダニズムと過度にハイテク化された日常の荒唐無稽さの風刺する「ぼくの伯父さん」(1958)の構想を得た。

川辺の写真シリーズ「The Palms of Royan」に映っている住居、邸宅やホテルは、まるで巨大な映画のセットの一部分のような憶測を呼び、それに加えて人々の不在が、建築物が現実の大きさではなく縮小された建築モデルであるかのような印象を与える。同じように撮影された宮城の住居に関しても、それらが現実の破壊を映し出しているのか、それとも津波被害のシュミュレーションの建築モデルなのか、 そのイメージをひとりでどれだけ見つけても、我々がそれを読み取ることはほぼ不可能である。

川辺ナホは世界をあたかも集合体のように現す。世界はその物質的な強固さとしてではなく、例えば彼女が好んで使う炭の粉といったマテリアルで表現されるような、通過的で 儚ないものとして示される。廃墟は単に過ぎ去った過去や無情さへの思惟を促すものだけではなく、ひとつの状態から違う状態ヘと移行する通過の表現なのである。廃墟は消滅を繰り返す永遠の循環の中でたたずんでいるのではなく、それ自体が移ろいゆき、消滅するものなのだ。川辺ナホは2006年に発表したパノラマ的な炭のインスタレーションや2004年の短いビデオ作品「Sugarhouse」に見られる陽炎のようなマテリアルを使って、何度も住宅や廃墟と言ったモティーフを表現してきた。「Sugarhouse」では4分間の間に家は溶解してゆく。

古典的な西洋の廃墟が記念碑のように空にそびえ立つシルエットであるなら、川辺ナホの作品に出現するそれは、短い間に現れては消えるはかない痕、カリグラフィのような象徴、風に運び去られる木の葉のようだ。

Naho Kawabe. Observer Effect, Berlin 2013 より