Category Archives: プロジェクト

Japaner im Revier. Aufbruch ins Fremde / ルール炭田の日本人・越境者たち

ケルン日本文化会館 (Japan Foundation)

写真: Nathan Ishar
コラージュシリーズ Japaner im Revier 2024、各 42 x 29,7 cm
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_113_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_119_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_111_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_104_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_083_web
新聞記事コラージュ1 Kopie
previous arrow
next arrow
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_113_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_119_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_111_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_104_web
20240906_photo_studio-pramudiya-npi_JKI_Japaner-im-Revier_083_web
新聞記事コラージュ1 Kopie
previous arrow
next arrow

写真: Nathan Ishar

川辺ナホ「ルール炭田の日本人越境者たち」-シンクロする生

テキスト: 徳山由香


プロジェクト「ルール炭田の日本人」は、炭をマテリアルとして作品をつくる美術家川辺ナホの着想のもと、筆者がリサーチパートナーとして加わり2021年の秋に開始した。 2022年には文献資料調査、ルール地方の現地調査と並行してドイツ在住のかつての日本人炭鉱労働者とそのご家族の足跡をたどり、インタビューを行った。調査報告書として2023年4月に冊子『ルール炭田の日本人』を発行した。本リサーチプロジェクトは、よりパブリックな場での共有を意図し、 2024年9月6日から26日にかけて国際交流基金ケルン日本文化会館にて歴史資料と川辺の作品による「ルール炭田の日本人 越境者たち」と題し、展覧会並びにシンポジウムを開催した。

Read more
個人の資産としての労働、重い道具への探究
 労働とは[…]、譲渡不可能で国境を越え、誰の土地へでも持ち込める個人のもつかけがえのない価値である。—ジュリア・クリステヴァ [ 1 ] 1950-60年代に、ルール地方(ドイツ西部、デュッセルドルフ近郊)で日本人の炭鉱労働者が集団で働いていたとのこと。海外渡航が容易でない時期にドイツへ渡り、肉体労働に従事した彼らは、このクリステヴァの言葉を体現しているのではないか、というのがアーティストのこのプロジェクトへの動機だ。言葉の通じない異国での身体を使った労働、これ一つが「関税もかけられず持ち出せる唯一の資産 [ 2 ] 」という言葉は、無から創造を生み出す美術家としての彼女の生き様に重なる。川辺は調査を始め、文献に記された日本人炭鉱夫の言葉に目を落とす-「当時のドイツと日本では炭鉱で使われていた道具に違いがあり、ドイツ人の体躯に合わせてつくられた道具は重く使いづらかった」。これはドイツで制作する彼女が工具屋で道具を何気なく手に取ってみては、その重さに腰を抜かすかのように驚いたという経験につながる。西洋人と比べると小柄な体格を持つ同じアジア人としての共感と、一方で地底での想像を絶する過酷な労働行為、それに対する誇り。実際に炭坑の中で働いた人たちの話を聞きたい、もしそれが叶わなければせめてご家族の話を。このアーティストの熱意がプロジェクトの原動力だった。
60年余前の事象に関する調査であれば、まず書籍に始まり、新聞、雑誌などの活字資料を網羅的にあたり、情報を整理し調査内容の的を絞った上でインタビューを試みるだろう、と筆者はリサーチ [ 3 ] の筋道を立てた。通常リサーチはまず先行研究をあたるなどの手順を踏むことで独自性を示すことができる。ただ興味の趣くまま尋ねることは過去の調査の上書きになりかねず、個人への聞き取りにあたるなら倫理的な配慮も望まれるため、周到な事前調査を要する。
ドイツにいた日本人炭鉱者については、 2000年代に刊行された2冊の先行研究 [ 4 ] があり、各種エッセイや新聞報道なども辿ることができる。その上でなおアーティストは、肉声による証言を望んだ。というのもその関心の中心は史的調査に記される事実だけではなく感覚だという。彼女は語った-「炭鉱内で個人が五感で感じたことを聞いていきたいと思った。その身体が感じたことは、その身体を持っている人しか語ることができない [ 5 ]」。つまり彼女が知りたかったのは、感覚すなわち客観化されない相対的なもの。それには歴史的手法とは異なる直接的なアプローチが有効だといえるだろう。

通時的視点と共時的視点
こうしたリサーチのプロトコルに適う手法を唱えた筆者とアーティスト川辺との態度の違いを、グラフィックデザイナーの尾中俊介が「通時的と共時的」と指摘する [ 6 ] 。「通時的 Diachronic」視点は、事実関係を時系列に沿って整理する態度を指す。これに対して「共時的 Synchronic」視点とは、時系列に沿った歴史を考慮せずに、ある特定の時の言語を「スナップショットのように」取り出すような態度だ。言語学において、その時代特有のある言語を対象としてその構造や様々な使われ方を考察することを、共時的視点といい、一方である時代のとある言語を別の時代での同じ言語と比較することで、言語の成り立ちを考察する態度を通時的視点という。あえて要約するなら、共時的視点はその時点での「様々な異なり Variation」を表すのに対して、通時的視点は歴史を通しての「変化、変遷 Change」を表す、ということになるだろうか。
筆者の持つ史的態度は、通時的視点にあたり、文献資料やさまざまな先行記述によって、インタビューを行う前からその捉え方を定めることで現在の地点から過去へと眼差す。あるいは過去の資料から得られる視点を探り出す。それにより意図は確実になり、記述の精度は増す。これに対してアーティストの川辺が目指したのは、過去の時間に入り込み、その時間を生きた「その人固有のもの」としての経験、記憶、感覚を捉える試みで、それは現在の地点から整理しようもない、つまり一つの目的や意図を持った歴史記述には収まらない「様々な異なり Variation」を捉えることだといえるだろう。

過去にシンクロする
昨今の現代美術では、アーティストが社会問題や地域の歴史的背景を主題にリサーチすることを手法として取り入れた作品が多く見られる [ 7 ] 。主題として調査した情報を昇華し、別のレベルの体験へと誘う作品もある一方、調査内容を視覚化して提示、いわゆるインフォグラフィックとして整理し、啓蒙的なステートメントのように作品化したものもある。
川辺の場合、本プロジェクトにおいてはひとまず作品制作のことは考えずに調査に取り掛かることを宣言した。まずは拾い集められる声を収集し、ものと場所を実見することに重きが置かれた。私たちはルール地方を訪れ、炭鉱跡や博物館を訪問し、かつて炭鉱労働に従事した日本人やその家族へのインタビューを行い、地元の資料館を管理する元炭鉱関係者からも話を聞き、そしてアーカイブに保管された新聞記事や手記、未発表の原稿も多数目にした。調査報告書の原稿に川辺は、新聞記事の見出し、他の手記からの言葉、そして彼女自身の語りを織り込んで綴った。まるで過去の時間に潜り込み、ともにそこで呼吸するかのように。元炭鉱夫からの聞き取りでは我々の想像を裏切るかのような「楽しい思い出しかない」という誇らしげな言葉も聞いた。それを記しながらも彼女は述べる。
  人生の中で炭鉱労働にポジティブな経験を見出せた人は少数派だったかもしれない。そして、自らの経験を語る前に亡くなられた方も多く、自主的にドイツの炭鉱に働きに来た人々については消息を知るのは難しい。語られたことよりも語られなかったことの方が膨大にあり、また、たとえ語られたとしても、そこから残る言葉はさらに少ない [ 8 ] 。
事実関係では捉えきれない経験値の揺れ動きと存在しないものへの想像力。それは、資料を礎とする学術研究とは対照的に、あったかもしれない可能性の領域を示唆する [ 9 ] 。ここに語られるオーラルヒストリーに耳を傾ける私たちは、必ずしも一筋にまとまりえない「様々な異なり」の数々の生として、過去の複数の時間を経験する。いくつもの声が重なりポリフォニーのように聞こえる過去を生きる。ここに紡がれた言葉にアーティストならではの眼差しがあるとするならば、過去の時間、経験と感覚に共時/シンクロし、語られなかった声を聞き、それを形にしようとする態度ではないだろうか。
川辺が調査後に制作した《 Japaner im Revier 》 (2023) は写真資料、現在の様子を映すスナップショット、地理資料、新聞記事などの多層的なコラージュにデッサンを描き加えた作品だ。これは彼女がルール炭田の日本人たちの過去と今にシンクロする経験が複層的に表象として立ち現れたものといえるだろう。幾多の時間がルールの地に流れ、そこには数々の生がある。アーティストは、一つ一つの経験を集め、それらをシンクロさせて、様々な生のヴァリエーションを見せる。

多元的であることで開かれる
このプロジェクトは、歴史的、社会的探究を言語、視覚表現で表象したもので、複数の手法を組み合わせた折衷的なものだ。こうした多元的手法に意義を見出すなら、それは新たな参加の可能性を開くことといえるだろう。調査の際には元炭鉱労働者のご家族にも聞き取りをした。そこで意図せず明らかにされたのは、炭鉱夫の配偶者となった人の中には、 1960年代に日本から看護や医療の技術を身に付けて自らドイツへ渡り、夫となる人と出会い、共に生活を築いた女性たちがいたということだ。他にも在独日本人でさまざまな理由で日本を離れて有償無償の労働に誇りを持って生を費やしてきた人々の証言も聞くことができた。彼ら彼女らとの出会いは、炭鉱という巨大産業の陰に“労働という資産”を携えて海を渡った人々が無数に存在することを私たちに知らしめた。私たちのリサーチは、作品と報告書の発表を結びとするのではなく、むしろこうしてときほどかれた幾多の個人史の探究をよりパブリックなものとして社会に開く試み [ 10 ] として継続する。
「ルール炭田の日本人 越境者たち」は過去と今を生きる私たちの、大きな歴史に刻まれることのない生を包摂する。日本人炭鉱労働者の足跡の探究に始まったこのプロジェクトが、時間と空間を越え、性別役割、職業、社会的評価など種々の境界を渡り歩きながらここにいる私たち“越境者”の「様々な異なり Variation」を含む場となることを願う。アートはこうして多元的な方法で複雑さを探究し表象することで、世界のありようを描くことに少なからず貢献できるのではないだろうか。

(キュレーター、現代美術研究者)

[ 1 ] Kristeva, Julia. Étrangers à nous-mêmes, Paris: Fayard, 1988; Paris, pp. 30-31. から筆者訳。(ジュリア・クリステヴァ『外国人 ― 我らの内なるもの』池田和子訳、法政大学出版局、 1990年、 25-26ページ)
[ 2 ] ibid., p. 32. 筆者訳。
[ 3 ] ここでいうリサーチとは必ずしも学術研究 academic research にとらわれず、日本語の「リサーチ」が一般的に指すところの「目的を伴う調査活動」を指す。
[ 4 ] 森廣正『ドイツで働いた日本人炭鉱労働者:歴史と現実』法律文化社、 2005年。 Kataoka, Atsushi, Mathias, Regine, Meid, Pia-Tomoko and Pacha, Werner. Japanische Bergleute im Ruhrgebiet “Glückauf” auf Japanisch, Essen: Klartext-Verlag, 2012. (片岡淳、独日協会ニーダーライン編『日本語版「グリュックアウフ」:ルール地方における日本人炭鉱夫 日本語原稿集』独日協会ニーダーライン、2014年)
[ 5 ] 川辺ナホ『ルール炭田の日本人』 B版、 2023年、 p.13
[ 6 ] 尾中俊介 (Calamari Inc.)は冊子『ルール炭田の日本人』のグラフィックデザインを担当した。 「通時的 Diachronic」 「共時的 Synchronic」は言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールの理論。 Buchanan. Ian, A Dictionary of Critical Theory, Oxford University Press, 2010.
[ 7 ] 近年のアーティストのリサーチを伴う表現については以下が詳しい: Bishop, Claire, “Information Overload,” Artforum #61-08, April 2023.ビショップは主に1990年代以降のデジタル技術の進展に伴うアーティストによる情報提供の過重とリサーチのあり方について論じているが、今回の我々の調査は、むしろインタビューやフィールドワークを伴う歴史社会学的アプローチに近い。なお本プロジェクトはアーティストによるものではあるが、報告冊子にはフィクションは採用していない。
[ 8 ] 川辺、 op.cit, p.55.
[ 9 ] アートにおける調査は量的調査よりも質的調査に重点が置かれることが多いため、事実の蓄積よりも可能性の領域を拡げることに貢献することがその役割として挙げられよう。
[ 10 ] 2024年9月7日ケルン日本文化会館にてシンポジウムを開催。登壇者は、日独の労働史の専門家で上記 “Glückauf”著者のレギーネ・マティアス氏(CEEJAアルザス欧州日本学研究所副館長)とジェンダー労働学を専門とする歴史社会学者石井香江氏(同志社大学グローバル地域文化学部教授)。
 
 
*本プロジェクトは2022年及び2024年に公益財団法人小笠原敏晶記念財団からの助成を受けて実現しました。 2024年には女性のエンパワメントを推進する国際ゾンタ財団東京ゾンタクラブ I から研究支援を受けて実現しました。ここに記して深く御礼申し上げます。
 
*本稿は、過去に筆者(徳山由香)の note にて発表した「ルール炭田の日本人:過去にシンクロする」に加筆し、2024年国際交流基金ケルン日本文化会館での展覧会の際に会場にて発表しました。今回の発行にあたり一部修正を加えました。

展覧会: 2024年9月7日-26日
講演・パネルディスカッション: 2024年9月8日
講演: レジーネ・マティアス=パウアー教授、アルザス日本研究センター(CEEJA)副所長
パネルディスカッション: レジーネ・マティアス=パウアー教授、石井香江教授(同志社大学京都)、川辺ナホ、徳山由香(研究者・キュレーター)
主催者: ケルン日本文化会館、川辺ナホ、徳山由香
共催(講演・パネルディスカッション): ケルン日独協会、独日協会ニーダーライン
後援: ゾンタ、小笠原敏晶記念財団

Aufenthalts​wahrscheinlichkeiten / 確率的滞在

展覧会 (The Blend Apartments & Artist in Residence / FLAG studio 大阪、 8. Salon e.V. ハンブルク) カタログ ビデオ

Design: Shunsuke Onaka (Calamari Inc.)

川辺ナホによるアート・プロジェクト
大阪・ハンブルク友好都市30周年記念事業
主催: Goethe-Institut 大阪 京都

Aufenthalts_projekt1_Kenichi Amano

Photo: Kenichiro Amano

Aufenthalts_projekt2_Kenichi Amano

Photo: Kenichiro Amano

Aufenthalts_projekt3_Kenichi Amano

Photo: Kenichiro Amano

Aufenthalts_projekt5
Aufenthalts_projekt6
Aufenthalts_projekt7
Aufenthalts_projekt8
previous arrow
next arrow
Aufenthalts_projekt1_Kenichi Amano
Aufenthalts_projekt2_Kenichi Amano
Aufenthalts_projekt3_Kenichi Amano
Aufenthalts_projekt5
Aufenthalts_projekt6
Aufenthalts_projekt7
Aufenthalts_projekt8
previous arrow
next arrow

テキスト: 川辺ナホ
カタログ「Aufenthaltswahrscheinlichkeiten」より

ハンブルクと大阪は2019年で友好都市30周年を迎える。私は、2001年からハンブルクに住む日本人美術家として、これまでに2009年と2014年の二回に渡り、友好都市記念行事に参加してきた。それらの経験を踏まえ、2019年の初めにハンブルク在住の美術家たちの作品を大阪で展示する企画を立ち上げることになった。この企画の特徴は、私のようにドイツ語を母国語としない、出身地がドイツ以外の美術家らによる展覧会であるということだ。

Read more
今日の現代美術の現場において、美術家たちは、自身の作品の美的背景やその社会的背景を表明するよう期待されている。私自身のことを省みても、他の美術家たちが「外国語」の環境の中で、どのような戦略を持ってそれをやり遂げてきたのかは、大いに興味を引かれるところだった。言語的な新しい定式化は、作品や個人に変化をもたらしたのだろうか?また、グローバル化によって世界はある意味均一になってきているが、それゆえに、社会は他の文化との差異に過敏になってきているように思える。こうした中で、長きに渡り故郷の文化圏から遠く離れて暮らす美術家たちは、だんだんとその文化圏への帰属意識を失ってゆき、まさに入れ子構造のような文化的アイデンティティを形成してしてゆく。このような美術家たちの状況は、その振舞いや美術表現に影響を及ぼしているだろうか?これらの疑問からこの企画は始まり、タイトルは「Aufenthaltswahrscheinlichkeiten・確率的滞在」とした。この企画は同時に、私の故郷である日本に、外国籍のアーティストがほとんど暮らしていないという事実にも問いを投げかけるものでもある。

まずはじめに、私自身のハンブルクでの経験を基に25個の質問を作った。そして、他の国からハンザ都市ハンブルクへと移り住んできた美術家たちにインタヴューを申し込み、それを録音することにした。良い状態で音声を収録するために、私は小さな組み立て式の移動録音ブースを制作し、それを携え美術家たちのアトリエを訪ねた。

ジョー・サム=エッサンドーの仕事場に行った時のことである。彼は、録音ブースが収納されていたビニール製のキャリーバッグを見るなり吹き出した。「そのバッグがなんて名前か知ってる?」このようなバッグは、ハンブルクでは特に、南方からやって来た人々が経営する小売店でよく山積みになって売られている。その大きさと色は様々だが、どれも等しく格子柄だ。私のそれは、フルクサスの作家でハンブルク造形芸術大学の教授だったClaus Böhmlerから譲り受けたものだった。教授は、ちょっと変わった日用品に並外れた関心を持っており、そういったものを数多く収集していたため、そのビニールバッグの名前や意味もきっと知っていただろう。しかし私にとってのそれは、大きなものを運ぶのに適した優れものの袋にすぎなかった。このキャリーバッグのもつ特別な意味、そして、通称「ガーナ・マスト・ゴー」と呼ばれていることを、私はこの時ジョーに会って初めて知ったのだった。1983年、当時のナイジェリア大統領シェフ・シャガリは、国内に住んでいた二百万人以上の不法移民を追放した。追放された人々の半数以上はもともとガーナからやって来た人たちで、ベナンとトーゴを超え、故郷まで戻ることを強いられた。このときに、彼らの持ち物全てを運ぶのに使われたのが、軽くて丈夫なこのキャリーバッグだったのだ。以来、それは「ガーナ・マスト・ゴー」と呼ばれるようになり、世界中で売られるようになった。2019年の夏、私は件の格子柄のバッグを担ぎ、作家たちのアトリエからアトリエへと交通公共機関を使って、ハンブルク中を移動していた。バスに乗る華奢なアジア人と大きな「ガーナ・マスト・ゴー」という組み合わせは、他の乗客に奇妙な光景と映ったに違いない。とりわけその由来を知る人たちにとっては。

このバッグは単なる日用品にすぎないが、同時に異なる物語を多重露光のように映し出している。バッグのユーザーである私は、この製品 に「難民を手助けしたモノ」という広汎性のある他の意味があることを知ることで、新しい角度から、ハンブルクに住む日本人という自分自身の様子を見るのだ。こうした異なる文化的背景を持つ人々との日常的な交流プロセスは、同じ空間の中に生活している相手の、私にとって馴染みのないその身の上への関心を深め、私自身をも変化させてゆく。いくつもの異なった世界やパースペクティブ、立場が混ざり合い、重なり合い、そしてそれらがつながってゆく様は、まるで新しい星座を自分たちの手で形作り続けていくかのようだ。量子力学によると、世界を構成する最小単位の粒子は、点として観測できるが同時に波でもあるため、それを捕獲することはできないらしい。粒子は空間の一点として観測されるまでは、重なり合った「状態」として空間の中に存在している。ドイツ語のAufenthaltswahrscheinlichkeitという単語は、量子物理学の用語では「確率密度関数」と訳されるが、Aufenthalt/滞在とWahrscheinlichkeit/確率という2つの単語に分けることもできる。ここでもあり、そこでもある。同時に起こる存在と不在、静寂と喧騒。外国人の「在留資格」はドイツ語でAufenthaltstitelという。永住権を持たない人間はだれしも、ビザ申請のために「外人局」に行く前は落ち着かないものだ。滞在許可がもらえる確率(Wahrscheinlichkeit)は、一体どのくらいだろう?世界の全てを構成する最小単位が、そもそも確率に依っているならば、自分も運命もまた確率に委ねられてしまうのだろうか?私はここに留まれる?それとも荷造りを始めるべきなのか?

この展覧会に参加してくれた作家たちの出身地は幅広く、作家として実に様々なポジションを確立している。大阪で展示されるのは、企画の趣旨を説明した上で作家と共に選んだ作品だ。展覧会では、各作家へのドイツ語によるインタヴュー音声の一部を、サウンド・コラージュとしてビデオ作品の中に聴く事ができる。インタヴューの内容は日本語字幕で読むことが可能だ。作家たちと私の語らいは、異なる言語文化から「派生」した2つのドイツ語の出会いでもあった。そこに起因した曖昧さは、互いに歩み寄ることにより、ときに実りある交流へと転じた。この企画――展示作品やビデオ、語られていること及び書き記されていること――が様々な文化への理解と友好都市の交流につながれば、大変嬉しく思う。