1972年に発射されたアポロ17号を最後に、人類は月に足を踏み入れていない。しかし月面には宇宙飛行士が持ち込んだモノが今も放置されたままだ。そしてそこにはNASAが持ち込んだのではなく「密輸」されたとされているモノもある。1.3センチ×1.9センチのセラミック製の基盤に6人の美術家(アンディ・ウォーホル、クレス・オルデンバーグ、デイヴィッド・ノヴロス、フォレスト・マイヤーズ、ロバート・ラウシェンバーグ、ジョン・チェンバレン)のドローイングが刻まれた「月の博物館(Moon Museum)」(1962年)である。月に現代美術作品を持って行きたいと考えたマイヤーズが当時第一線にいた美術家たちに声をかけ実現したこの極小の「作品」は、まさに網の目をかいくぐり着陸モジュールの脚に取りつけられ、月面に残されていると作家自身によって表明された。胸踊る話だが真偽は不明、現時点では誰も確かめることはできない。
すべて新作で構成される本展覧会の会場でわたしたちを迎える大型インスタレーションに目を向けよう。地球から月までの距離の3億分の1の長さのロープが、空間を切り取るように張られ、面を形作っている。ロープからだらりと垂れ下がった複数の黒いオブジェは「月の博物館」のドローイングの形をもとに、川辺が毛糸で手編みしたものだ。制作過程で身体が機械化するような感覚にとらわれたというこの手作業は、コアロープメモリを編み込む女性工員の行為を反復するものともいえる。
川辺ナホは日本とドイツを行き来しながら活動を続けてきた。「境界」と「移動」は、彼女の生活とも表現とも不可分なものである。今から50年近く前の、月面着陸という人類史上に残る出来事も、地球から月への大きな移動ともいえるし、女性の労働をめぐる問題は現代社会にも通じている。複数の史実・物語が作品に織り込まれ、確固とした形を有し、あるいは変形し崩れ、新たな形を描いてゆく。本展のタイトルは川辺がつけたものでそこには理由があるのだけれど、この言葉を彼女の作品に対峙する際のヒントとも捉えることがができそうだ。言い換えると…